いろは丸事件いろはまるじけん

海援隊が大洲藩から借りていた蒸気船・いろは丸。坂本龍馬らは大坂に向かってました。一方紀州藩の明光丸。こちらは長崎を目指しています。慶応3年4月23日。この2隻が衝突事件を起こします。これが事件のきっかけです。

一方は海援隊という土佐藩にぶら下がってる一組織。一方は雄藩の紀州藩。完全に紀州藩有利の情勢です。しかしここで龍馬のハッタリ交渉力が発揮されます。これがこの事件の面白いところです。

まず交渉の第1ラウンドは鞆の浦です。ここで龍馬と紀州藩は交渉を重ねます。龍馬の主張は「ぶつかったのはお前らが悪い。だから謝れ!賠償しろ!」というもの。しかし紀州は紀州で言い分があります。話し合いは平行線。で、交渉の場は長崎に移ります。

長崎での交渉でも、龍馬のハッタリ交渉は続きます。彼は「万国公法」を持ち出します。「国際法の観点からも、今回の衝突は紀州藩が悪い」と。紀州藩にとったら、なんのことだかさっぱりわかりません。当時どれだけの人が「万国公法」というものを知っていたのか。恐らく紀州藩はちんぷんかんぷん。でも龍馬の目くらまし作戦は成功します。

次に龍馬は「世論を巻き込む」という方法をとります。当時としては新し過ぎる手法です。「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」という内容の歌を流行らせます。これにも紀州藩はビックリしたでしょうね。

龍馬のさらなるハッタリは、その賠償金額です。「いろは丸には大量の銃が積んであった。その分も賠償しろ!」と。沈んでしまった船なので、何が積まれてたのかなんてわかりません。龍馬はそこを利用しました。賠償金の額を吊り上げる材料に利用したのです。

という感じで交渉は進み、結局最後は薩摩藩の五代友厚が間に入り、交渉は終了しました。紀州藩は多額の賠償金を支払うことに合意したのです。

しかし! この賠償金がどういう方法で誰に支払われたのか、実はよくわかってないのです。海援隊の会計は土佐商会が管理していたから、「岩崎弥太郎持ち出し説」がまことしやかに囁かれるのですが… ※ 三菱はこの説を否定しています。まぁそりゃそうですよね(笑)