【歴史インサイド】京都を救った琵琶湖疏水建設 知られざるプロジェクトリーダー

 今年は明治150年。首都の座を東京に明け渡した150年前の京都は、やがて人口が3分の2に激減し、「狐狸(こり)のすみか」と揶揄(やゆ)されるほどに落ちぶれた。そんな古都の危機を救ったのが、大津から京都に開削された「琵琶湖疏水(そすい)」の建設だ。この国家的プロジェクトは22歳の若い技師、田邉朔郎(たなべ・さくろう)が成し遂げたと伝えられるが、孫の田邉康雄さん(81)は「注目すべき人物が別にいた」と指摘する。それが朔郎を招聘した当時の京都府知事、北垣国道(きたがき・くにみち)だ。朔郎の妻は北垣の長女なので、田邉さんにとっては北垣は曾祖父にあたる。工部大学校(現・東京大工学部)を卒業したばかりの朔郎を抜擢(ばってき)した北垣について、田邉さんは「真の立役者」としている。(田中幸美)

明治150年に通船「復活」

 琵琶湖疏水は、琵琶湖の水を水力発電や物資運搬、灌漑(かんがい)用水など多目的に活用するため、大津から京都・蹴上(けあげ)まで開削された水路(約8・7キロ)。明治18年8月に着工し23年3月に完成した。

琵琶湖疏水の観光船。大津-京都・蹴上間を往復している=京都市山科区 琵琶湖疏水の観光船。大津-京都・蹴上間を往復している=京都市山科区

 24年には蹴上の水力発電所が送電を始め、27年には伏見まで延長。通船で疏水を利用して人や物を運んだほか、水力発電の採用もあって新しい産業の振興につながり、路面電車も開通。京都復興の足がかりとなった。

 通船は陸運の発達などにより昭和26年で運航が終了。だが、現在でも琵琶湖の水を京都に届ける貴重な水源となっている。また近年は観光振興のため復活の機運が高まり、明治150年にあたる今年の3月末、定期観光船の運航が再開された。

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 この琵琶湖疏水プロジェクトの主任技師に選ばれたのが朔郎だが、田邉さんは、抜擢した北垣がプロジェクトリーダーとして、もっと評価されるべきだと感じているという。

伊藤博文からの要請

 北垣は、但馬の庄屋の家に生まれた地侍(じざむらい)だった。田邉さんによると、秀吉の時代には武士だったのに、徳川によって農民に格下げされた。

 幕末には勤皇の志士として、生野銀山で公家をもり立てて倒幕に動いたものの失敗に終わる「生野の変」を首謀した。その後、長州藩の奇兵隊に身を寄せたが、その際もめざましい活躍。このときに薩長の人脈を築き上げたという。

 明治新政府では、北垣は北海道開拓使や徳島、高知の県令(県知事)など地方の要職に就いた。

琵琶湖疏水事業の「真の立役者」北垣国道(京都市上下水道局提供) 琵琶湖疏水事業の「真の立役者」北垣国道(京都市上下水道局提供)

 明治という新しい時代の幕開けとは裏腹に、「都」が東京に移った京都は衰退した。そんな中、北垣は時の宰相、伊藤博文から京都府知事就任の話を持ちかけられた。北垣は「天朝(天皇陛下)のおわしました京都の知事は自分には務まらない」と一度は固辞したが、明治14年、45歳のときに第3代府知事に就任した。

榎本武揚の提案

 北垣が着目したのはインフラ整備だった。京都にとって、琵琶湖の水を引くというのは昔からの夢。その実現に向け、北垣は巨額費用の確保と技術的な問題の解決に奔走した。

 「北垣は地縁・血縁の人脈をフルに活用して仕事をする人だった」と田邉さん。北垣は前任地の高知県から優秀な測量士を招聘。かつて築いた薩長人脈を駆使し、日本三大疏水の一つ「安積(あさか)疏水」(福島県郡山市)を完成させた内務省の技師、南一郎平(みなみ・いちろべい)を招いた。

 ところが、思惑通りにはいかなかった。

 その話を聞きつけ、朔郎を北垣に売り込んだ人物がいた。「五稜郭の戦い」で薩長に徹底抗戦した榎本武揚(えのもと・たけあき)だ。戊辰戦争では敵・味方だったが、同い年で、戦後はともに北海道開拓使となり、気脈を通じる仲となっていた。

 榎本は朔郎の叔父、田邉太一と長崎海軍伝習所時代の同僚だった。北垣は榎本の紹介で工部大学校長に会い、朔郎を紹介される。

 それが「琵琶湖疏水に関する卒論を見て感激した北垣が朔郎を招聘して一任した」という定説になった。

琵琶湖疏水の沿線は春には桜、秋には紅葉が楽しめる観光名所でもある=京都市山科区 琵琶湖疏水の沿線は春には桜、秋には紅葉が楽しめる観光名所でもある=京都市山科区

画期的な水力発電所の建設

 北垣は朔郎を使って計画を立案し、政府にプレゼンテーション。滋賀や大阪に対する補償問題があるなど反対論もあったが、北垣は説き伏せ、明治18年に着工した。

 朔郎は初めての現場経験にもかかわらず、作業員をうまく指揮し工事を進めた。最初に掘られた第1トンネルの竪坑(たてこう)で事故があった際、議会から「更迭しろ」との声が上がったが、北垣は「田邉(朔郎)でよい」と一蹴したという。

 難関の第1トンネルの貫通後、アメリカで調査をしてきた朔郎が、当初の水車配置方式から水力発電所建設への設計変更を進言した際、英断を下したのも北垣だった。当時山の中にしかなかった水力発電所を町中に建設し、売電事業に成功。その後開通した日本初の路面電車「京都市電」の運行に大きく貢献した。

「まさにプロジェクトリーダー」

 朔郎の孫である田邉さん自身も技術者で、石油化学プラントの設計から建設、運転に至るまでをまとめるプロジェクトリーダーを30年間務めた。定年後は「安全コンサルタント」として工場の「訪問診断指導」を担っている。

田邉朔郎の孫にあたる田邉康雄さん=東京都品川区 田邉朔郎の孫にあたる田邉康雄さん=東京都品川区

 同じ技術者で祖父の朔郎について「いい仕事をたくさんした」と言及。その上で「目的達成のために反対者を説得し、正しいと信じた道を決断する」として、北垣こそ合理的、建設的な思考によってプラント建設を進める「プロジェクトリーダー」そのものだったと評価する。

 朔郎の像は、観光客が多い蹴上(けあげ)疏水広場(同市東山区)に、功績をたたえる石碑と並んで立つ。一方、北垣の像は夷川発電所(京都市左京区)の事務所前にポツンと寂しく立っている。田邉さんは「真の立役者というべき北垣の像も、朔郎像の近くに移設して顕彰してほしい」と話している。

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