【本郷和人の日本史ナナメ読み】大隈重信と野球(上)日本独自の始球式の創始者は?

明治41年、来日した米国のプロ野球選抜チーム「リーチ・オール・アメリカン」と一緒に写真に納まる大隈重信(後列左から4人目)=『野球歴史写真帖』(大正12年)から 明治41年、来日した米国のプロ野球選抜チーム「リーチ・オール・アメリカン」と一緒に写真に納まる大隈重信(後列左から4人目)=『野球歴史写真帖』(大正12年)から

 ちまたではサッカーの話題で持ちきりですが、ぼくは昭和の人間なので、やっぱり野球なんだなあ。ここはあえて野球でいきましょう。まずは始球式の話。

 始球式。ご存じですよね。ゲームに先立ち、ゲストがマウンドに立ってボールを投げる。このとき宇宙人・新庄剛志だとマジで打ってしまうのですが、まあふつうの1番バッターは空振りをする決まりになっている。で、球場に沸き起こる拍手。…こういう光景、野球観戦に行くと、見ることができます。

 ただし、この始球式は日本独自のものなんです。本場アメリカでは違う始球式を行う。たとえば貴賓席からゲストがフィールドへボールを投げ入れる、というパターンがある。あるいは日本のように、ゲストがマウンドに立ってボールを投げる形式のものもある。この時はバッターボックスに打者は立ちません。ホームベース近くでボールを受けるのは、ゲストにゆかりのある人物です(たとえば仰木彬さんがマリナーズに招かれて始球式をしたとき、受けたのはイチローでした)。

 さて、話を元に戻して日本式の始球式。これ、いつごろ始まったかご存じでしょうか?

 答えは明治41(1908)年。このとき、アメリカの選抜チーム(中にメジャーの選手も含まれていた)が来日し、早稲田大学の野球部と親善試合を行ったのです。この時、始球式が催された。

 となると、誰が記念すべき最初のボールを投じたか、お分かりですよね。そう、大隈重信だったのです。

 11月22日、試合に先立つマウンドには、同大学の総長である大隈伯爵(のち侯爵、没後に公爵)。伯の投球はストライクゾーンから大きくそれてしまったのですが、このとき打席に立っていた早稲田大学の1番打者は、われらが総長先生の投球をボール球にしてはまずい、恥をかかせることになると判断し、わざと空振りをしてストライクに。

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 大隈が日本初の政党内閣の総理大臣になったのが明治31(1898)年のこと。総理が大隈で内務大臣が板垣退助。いわゆる「隈板(わいはん)内閣」(文部大臣になったのが尾崎行雄、また犬養毅)です。しかし、薩摩・長州の藩閥ではなく政党人の内閣なら素晴らしい政治ができたかというと、そういうわけでもなかった。旧自由党と旧進歩党との勢力争いにより、わずか4カ月で総辞職を余儀なくされています。その後、大隈は明治40年に政界を引退(のち復帰します)。早稲田大学総長に就任するなど、文化事業に精力的に取り組んでいました。

 それで総長による始球式と相成った。これ以降、バッターは投球がボール球でも真ん中に来ても(かつて小泉純一郎元首相は、かっこよくど真ん中に投げましたね)、始球式の主役である投手役に敬意を表すため、空振りをすることが慣例となりました。この日本式の始球式はその後アジアの国々に広まっていき、さらには本場アメリカでも採用されることがあるそうです。

 大隈という人は外交も財政もいけた。すごい政治家です。でも、本領は外交だったのかな。その才能を高く評価したのが伊藤博文で、不平等条約改正を目的として、明治21(1888)年には外務大臣に登用しました。これ以前、明治十四年の政変で2人は激しく対立し、大隈は下野していたのに、です。その政敵である大隈を閣僚として抜擢(ばってき)する。このあたりは伊藤の懐の深さなのでしょう。また、国益のためならばと小さなメンツにこだわらずに伊藤に協力する。これは大隈の偉さだと思います。

 次の黒田清隆内閣でも大隈は外務大臣に留任しますが、外国人判事を導入するという条約改正案を示して、反対派の強い批判を受けます。そのために明治22年10月、国家主義組織・玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を切断することになりました。

 このとき大隈は少しも騒がず、後には「吾輩は吾輩に爆裂弾を放りつけたやつを、憎い奴とは寸毫(すんごう)も思わぬ」「蛮勇でも何でも、吾輩はその勇気に感服するのである」(『青年の為に』)と語っています。西郷さんは大隈を俗吏として評価しませんでしたが、いやいやどうして、彼は肝の据わった人物だったのです。(次週に続く)

                   

【用語解説】早稲田大学と野球

 早稲田大学野球部は日露戦争中の明治38(1905)年に渡米。スクイズなどの戦術から練習法、グラブや靴などの用具までさまざまな先進知識を持ち帰り、日本の野球黎明(れいめい)期に大きな役割を果たしている。同大はその後も米国との野球交流を積極的に進め、こうした流れの中で41年11月22日、来日した米国のプロ選抜チーム「リーチ・オール・アメリカン」と同大野球部との試合は行われた。

                   

【プロフィル】本郷和人(ほんごう・かずと) 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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