【解答乱麻】「空気を読んでも、空気に流されるな」 公、道徳から乖離してはならない  武蔵野大教授・貝塚茂樹

 「それは公か、それとも私か?」。幕末・明治の英傑、勝海舟は、議論の際によくこう相手を問い質(ただ)したという。勝にとって、その意見や主張が公心から出たものか、それとも私心に支配されたものであったかが決定的に重要であった。

 勝の人物批評は時に辛辣(しんらつ)であった。私心から出た言葉を弄する人物を嫌い、公心を生き方の基軸とした人物を好み、信を置いた。勝にとって、西郷隆盛、横井小楠、新島襄などは間違いなく「公の人」であった。

 昨年から繰り返された森友、加計問題。事の真偽はともかく「忖度(そんたく)」という言葉が話題となった。辞書的に言えば「忖度」とは「他人の心を推し測ること。また推し測って相手に配慮すること」といった意味である。「他者」の気持ちを推し測り行動することは道徳的に考えても決して悪いことではない。

 また「忖度」と同様に注目されたのが「空気」だ。「空気」については山本七平氏の『「空気」の研究』(1977年)という秀逸の日本人論がある。「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」という当時の軍令部次長の言葉に拘(こだわ)りながら「空気」の本質を見極めようとした。

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 山本氏によれば日本人は対象それ自体をそのまま把握するのではなく、その背後に何か宗教的なもの、絶対的な「恐れ」に近い感覚を感じ取るという。これを「対象の臨在的把握」と称した。戦前、戦中、戦後という時代が変化しても「空気」が日本人の意思決定の底流に脈々と受け継がれていると指摘した。

 日本人には「世間」はあるが、「社会」はないと言われる。西洋の「社会」という言葉は、本来は個人がつくる社会を意味しており、個人が前提であった。しかし、日本の個人は欧米のそれとは異質のものであり、日本人にとって重視されるのは、「世間」である。それは、「そんなことをしたら世間が許さない」「世間体が悪い」という言い方はあるが、「社会が許さない」や「社会体が悪い」という言い方は生まれなかったことに表れている。そう指摘したのは阿部謹也氏である(『学問と「世間」』)。

 ただし、阿部氏の主張するのは、日本人が「社会」を無視したということではなく、「社会」と「世間」をうまく使い分け、ダブルスタンダードの中でバランスを取ってきたということである。論理的な判断基準としての「社会」と身近で親密な関係性を基軸とした「世間」との間をうまく調整し、折り合いを付けてきたのが日本人であったということであろう。

 ところが現在の日本はどうか。「世間」は徐々に解体され、「空気」の意味がより大きな変質を遂げていると言えないだろうか。例えば「忖度」と同様、本来的な意味での「空気を読む」ということは、ある種の「美徳」と言える。しかし、「他者」との親密な関係性である「世間」が失われるに及んで、「美徳」としての「空気を読む」は、単なる「空気に流される」へと主体性を失い始めたのではないか。

 山本氏は「空気」の問題は、結局は「その空気の支配を許すか許さないか、許さないとすればそれにどう対処するか」であるという。「忖度」「空気を読む」と「空気に流される」を分かつものは何か。勝の言葉に帰れば「それは公か、それとも私か」ということになろう。

 言い換えれば「それは道徳か、否か」ということである。道徳から乖離(かいり)した「空気」は危険であり、そこからは「空気」に支配されないという主体性も生まれはしない。

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【プロフィル】貝塚茂樹

 かいづか・しげき 国立教育政策研究所主任研究官などを経て現職。専門は日本教育史、道徳教育論など。

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