【本郷和人の日本史ナナメ読み】大隈重信の不遇(下)西郷どんと信長の意外な共通点

早稲田大学の大隈講堂と大隈重信像=東京都新宿区(桐山弘太撮影) 早稲田大学の大隈講堂と大隈重信像=東京都新宿区(桐山弘太撮影)

 せごどん、西郷隆盛は大隈重信を評価しませんでした。一言でいうと、血のニオイがしない、から。大隈は幕末の血なまぐさい切った張ったに関わらなかった。まことに結構なことじゃないか、と思うのですが、西郷はそうは考えなかった。文字通り「命がけ」という事態を経験したことのないヤツは、いざとなったら使い物にならん。

 外交のセンスは他藩より一枚も二枚も上手であり、冷徹に実利を計算できると評される薩摩藩ですが、それでもヒュースケン殺害とか寺田屋騒動とかそれに続く田中河内介らの暗殺とか、現代のぼくらから見ると「なにそれ?」という事件を起こしています。幕末には一種の狂気が間違いなく存在し、とくに若者はその影響下にあった。だからこそ、260年続いた幕府を倒すこともできたのでしょうが、話せば分かる、とかの正論なぞは通じない。そして西郷さんは、間違いなくその狂気の中心にいた人なのです。

 だから西郷は、きわめて有能な大隈を「口先だけ」と嫌った。その点、山県狂介(有朋)は信用できる、とした。ぼくだったら「狂介」なんて名乗っているだけで、「どこのあぶない人か」って接触を避けますけれども。それに大隈は51歳の時に壮士に爆弾を投げつけられ、危うく命を落とすところだった(この時に右足を失った)わけですが、この事件前後の大隈の言動を確認すると、彼がいかに肝の据わった人物だったか分かります。西郷の評価は、明らかに誤りだったのです。

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 ただし、おそらく西郷のような価値判断を持っていた人というのは、ああいう激動期には少なくなかったに違いありません。武士道というは死ぬことと見つけたり(『葉隠』)なんて言葉もありますし。武士という連中は、すぐに切腹だなんだと騒ぎ出す物騒な人たちなのです。あ、そういえば『葉隠』の山本常朝は、大隈と同じく、肥前藩士でしたね。

 西郷と価値観を共有したに違いない人物といえば、何といっても織田信長だろうと思います。信長は女性と同じく、男性も性愛の対象としました。ところがここが信長らしいところなのですが、ただイケメンなだけでは、信長の愛は獲得できなかった。優秀でなければダメだったのです。前田利家、堀秀政、長谷川秀一、森蘭丸。信長の男色相手は、いってみれば織田政権の幹部候補生でした。

 じゃあ、信長はかわいがっていた彼らを大事に大事に育成したかというと、これがさにあらず。ぼくは体育会系ではなく文化系なんです、武官よりも文官としての才能が、とかそういうのは関係なく、ともかく戦闘にほうり込むわけです。戦場に連れて行って、どんどん戦いに参加させる。そうすると、実際の合戦では何が起こるか分かりませんから、全体では織田の勝ち戦であっても、運悪く討ち死に、なんてこともある。実際に森蘭丸の前任者、蘭丸以上に愛されていた万見(まんみ)仙千代(重元)なんかは、荒木村重を討伐する戦いで戦死してしまった。これなんて、犬死にも良いところです。

 信長ほどの人ですから、有能な家臣が命を張るべき状況は知り抜いていたでしょう。「殿、ここは私が身代わりに。早くお逃げください」「わかった、そなたの死は無駄にはせぬぞ」なんてのは名誉ある討ち死に。でも「勝敗は決した。あとは追い首じゃ。者ども、かかれえー。ん? どうした仙千代? なんじゃ流れ弾に当たりおったか」。これじゃあね…。

 鶏を割くに焉(いずく)んぞ牛刀を用いん、といいます。でも信長はお構いなし。かわいい幹部候補に、あんまり意味のない(とぼくには思える)殺し合いをやらせた。これはたぶん、信長が西郷と同じ尺度を持っていたためだと考えられます。とりあえず、敵を討ち取ってこい。クビをもってこい。それができて一人前だ、と。机上でどれだけの仕事をしても、それだけでは認められないのです。

 最後に付言すると、大隈重信のほうも、西郷隆盛を評価していません。木戸孝允は多感多情で進歩主義の人、大久保利通は意志の強い優れた政治家、と褒めています。ところが、西郷に対しては、政治上の能力が果たしてあったのか?と手厳しい(『大隈伯昔日譚』『大隈侯昔日譚』)。

 それが当たっているかどうかは別として、「英雄豪傑というのは、後世の人が賞(ほ)め立てたり、書き立てたりして英雄豪傑にしてしまうのだ。本当はやはり一個の人間で、長所もあれば短所もあるんである」(同)という大隈の冷静な言葉は、歴史研究者として、忘れてはいけないと思います。

                   

 次回は7月5日に掲載します。

                   

 ■大隈重信と早稲田大学

 明治14年、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く大隈は、伊藤博文との争いに敗れた。明治十四年の政変である。野に下った大隈は、翌年に立憲改進党を結成(尾崎行雄、犬養毅らが参加)するとともに「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就(ぞうしゅう)」をうたって東京専門学校を開設した。これが現在の早稲田大学となる。

                   

【プロフィル】本郷和人

 ほんごう・かずと 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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