【本郷和人の日本史ナナメ読み】大隈重信の不遇(上)有能なのに西郷はなぜ嫌った?

大隈重信(国立国会図書館蔵) 大隈重信(国立国会図書館蔵)

 いつもいつも戦国時代のネタを中心に書いてきたのですが、大河ドラマが西郷隆盛ですから、少し幕末・維新期の話も書いてみましょう。不評でしたら、すぐにやめますが。

 ぼくが興味を持っているのは、大隈重信です。2度にわたり総理大臣を務め、早稲田大学を創設した人として知られていますね。彼は天保9(1838)年、佐賀城下会所小路(かいしょこうじ)(現・佐賀市水ケ江)で、佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれました。生涯のライバルといえる伊藤博文よりも3歳年長です。

 幼名は八太郎。大隈家は、知行300石の砲術長の家柄というから、堂々たる上士です。維新政府に出仕した人々の中では抜群に毛並みが良い。足軽(実質は農民)出身の伊藤などは比ぶべくもないわけです。7歳で藩校の弘道館に入学し、佐賀特有の『葉隠』に基づく教育を受けましたが、これに反発して退学。国学を学んで尊皇運動に触れ、また蘭学を学んで文久元(1861)年には、主君である鍋島直正にオランダの憲法について進講。弘道館教授に任じられて、蘭学を講じています。

 当時、京都を中心として、時局はもうたいへんな激動のさなかにありました。攘夷(じょうい)か開国か、勤王か佐幕か。テロは日常茶飯事。京都でも各地方でもたくさんの血が流れました。そんな中、大隈は尊皇派に属していましたが、切った張ったの渦中に飛び込んだわけではありません。慶応元(1865)年には、豊かな学識で知られる副島種臣とともに、佐賀藩の英学塾「致遠(ちえん)館」で教頭格として指導に当たっていました。この学校の校長は宣教師のフルベッキ(1830~98年)で、彼は明治時代には東京で活躍し、明治学院大学の創設にも関わっています。大隈に英語を教えたのも彼でした。

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 ちょっと脱線。明治学院大学の創設者は、宣教師で教育者のヘボン(1815~1911年)。ヘボン式ローマ字の考案者として知られる人。彼は医師でもあり、横浜の医学会を創設しました。脱疽(だっそ)を患っていた悲劇の名優、沢村田之助(1845~78年)の左足切断手術を執刀したのもヘボン博士です。ご存じでしょうが、ヘボンは明治の言い方で、いまならばヘプバーン。「ぼくはヘプバーンが大好き。ただし、オードリーではなく、キャサリンのほう」という淀川長治さんの言葉をぼくはラジオで聞いた記憶がありますが、偉大なオスカー女優、キャサリン・ヘプバーンはヘボン博士の同族なのだそうです。

 明治学院大学の前身とも言うべきヘボン塾で学んだ人としては、高橋是清や三井財閥を支えた益田孝らがいます。それから、横浜に医学とくれば、と思って少し調べてみたら、やっぱり丸善の創業者である早矢仕有的(はやし・ゆうてき)(ハヤシライス生みの親との説もあり)もヘボンのお弟子さんなんですね。当時は外国人の版権所有が許可されなかったので、ヘボンが編纂(へんさん)した『和英語林集成』(西洋の言語による近代日本語の最初の辞典。和英辞典)の版権は丸善に譲渡されています(利益は明治学院に寄付された)が、そこにはこうした縁も作用していたに違いありません。

 話を元に戻します。明治政府の成立時、大隈は重く用いられました。はじめ外交面で仕事をしますが、外国から強硬な抗議を受けていた悪貨問題(幕末の動乱に際して、各藩は金の含有量を落とした貨幣を多く鋳造していた)に対応するうちに、おお、大隈は財政もいけるな、と評価されたのでしょう。明治2年の近代大蔵省創立とともに大蔵大輔に就任(のち大蔵卿に昇進)。それ以来、明治十四年の政変に至るまで、大蔵省の実質的なボスの地位を占めたのです。

 お財布を握っている人がエラいのは、古今東西、変わらない。大隈は明治政府の中でどんどん存在感を増していきます。明治ひとけた、政府のリーダーといえば、岩倉具視(ともみ)は別格として大久保利通でした。大久保暗殺後は内務卿(実質的な総理大臣)の地位を継承した伊藤博文と、大蔵省を掌握する大隈重信が並び立つ形となりました。それが議会の開設をめぐって明治十四年の政変へ、という展開になるわけですが、それは皆さんご存じでしょうから、省きます。

 ぼくが注目したいのは、こうした大隈の有能ぶりを評価しなかった人物がいました。それが誰あろう、あの大西郷、西郷隆盛だったのです。理由は? 大隈には血のニオイがしない。こういう人間はいざとなったら、腹をくくれない、覚悟がない。命を懸けられないヤツは信用できない、ということらしい。うん、適当か否かはさておいて、確かにこういう尺度はあり得るのかもしれません。(次週に続く)

                  

 大隈重信  1838~1922年 慶応大学の創始者である福沢諭吉は政治家を厳しく批判する人であったが、大隈とだけは親しく交わった。福沢が亡くなると、遺族は供花や香典のたぐいを一切拝辞したが、大隈の献じた花束だけは受け取った。英雄は英雄を知るというが、2人の大きさを示すエピソードである。

                  

【プロフィル】本郷和人(ほんごう・かずと) 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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