【赤字のお仕事】取材後記(4) 平成の「郷土の偉人」たち

 昨年11月、高校の歴史用語から一般に人気や知名度の高い「武田信玄」や「坂本龍馬」らの名を削除する精選案を民間団体が公表し、大きな注目を集めた。山梨県など全国各地で「郷土の偉人の名を消すな」と反対運動が広がり、民間団体は選定基準を「一般によく知られた人物などを厳選して取り上げる」と修正した。

 私の連載でも有名、無名の「郷土の偉人」たちが登場した。足跡を追った市川清流は伊勢国度会(わたらい)郡が生地。幕末期に清流が仕えた岩瀬忠震(ただなり)は江戸生まれだが、本家の設楽家(1400石取りの旗本)は東三河6カ村=現愛知県新城市=に知行地があった。清流の遣欧使節団入りに関わった奥州仙台藩士の大槻磐渓は、父で著名な蘭学者の大槻玄沢(1757~1827年)が一関藩出身であり、戊辰戦争で藩が敗北した後、一関の本家で謹慎していたところを官軍に拘束されている。磐渓については連載の「『東北人魂』を秘めた開明派の漢学者~大槻磐渓」(平成25年10月掲載)で紹介した。

 各地域の歴史的な人物を「自分たちの郷土の先輩」として顕彰する活動は盛んだ。この連載の取材でも、そうした多くの関係者から貴重な意見をいただいた。

 清流の出身地である現在の三重県志摩市磯部町には晩年と思われる肖像画が伝わっているし、市立磯部図書館の郷土資料館では清流に関する資料が閲覧できる。岩瀬忠震の本家設楽家が陣屋を構えた愛知県新城市には、本家菩提(ぼだい)寺の勝楽寺に「岩瀬肥後守忠震顕彰之碑」が建立されている。同市の「忠震会」は忠震の研究やリポートなどを掲載する会報「爽恢(そうかい)」を発行していて、取材したとき「忠震の功績を児童・生徒たちに少しでも知ってもらおうと足を運んでいる」と意欲的に話していた。

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 私事で恐縮だが、知人の父親が発行人となり室町後期の武将、太田道灌(どうかん、1432~86年)を中心とした小説=加藤美勝著「太田道灌の戦国決戦」知道出版=を出版した。江戸築城で有名な道灌だが、開府以前にいまの東京の礎を担った一人と称されても、歴史に興味のある読者以外は知名度が低い。「本を起爆剤に、ゆくゆくは大河の主人公に」と知人は話す。また記者として初任地だった福島市では、同市出身で高校野球の大会歌「栄冠は君に輝く」やプロ野球阪神の応援歌「六甲おろし」などの作曲で有名な古関裕而(1909~89年)夫妻の朝ドラ放送を実現しようと署名活動が進められている。

 岩手県一関市の市博物館に常設展示のコーナーが設けられている大槻磐渓は、戊辰戦争で官軍が会津征討の命令を仙台藩に発すると=1868(慶応4)年1月=朝廷への建白書を起草する一方、奥羽越31藩から成る「列藩同盟」を成立させた=同年5月。この同盟の意義を各藩に説いたのが同じ仙台藩士で藩校「養賢堂」指南統取の玉虫左太夫(さだゆう、1823~69年)である。

 玉虫は、江戸幕府と米国が結んだ日米修好通商条約の批准書交換のため派遣された「万延遣米使節団」に参加。行程を「航米日録」に記録した。航米日録に清流の記録より2年早く「博物館」(玉虫の記述では「博物所」)と記したことを、連載の「『博物館』と団員たちの世界観(英国・ロンドン)」(同26年3月掲載)で触れた。列藩同盟では、米国での経験を基に各藩の代表で組織する「公議府」設置の中心となった。その後、軍務局副頭取を務めている。

 「このすぐ近くに(玉虫の)ゆかりの物があるのに(玉虫を)知る人が誰もいないのです」。仙台市若林区で文具店「幸洋堂」を営む出雲榮子さん(83)と娘の直美さん(56)は打ち明けてくれた。直美さんのいう“ゆかりの物”とは店舗から東方へ歩いて10分ほどの泰心院山門のことだ。磐渓が学頭を務め、玉虫も藩の青少年たちを指導した藩校の正門を移築した。現存する唯一の遺構とされる。

 店舗では平成21年7月に完成した玉虫の胸像を保管している。高さ約45センチの木造で、渡米した30代後半を模したという。店を構える荒町地区は昭和末年から平成元年にかけ150軒を超える商店でにぎわっていたが、「きちんと数えたわけではないけれど、今は半分以下になってしまったのでは…」と直美さん。地域起こしの一環として父の幸五郎さん(昨年9月に逝去、享年86)が街づくりグループを結成し、「地域の観光資源を掘り起こす活動を通じて藩校正門と玉虫を知った」と話す。

 胸像は、20年7月に地下鉄建設で伐採された街路樹のケヤキを市から譲り受け、約4カ月をかけて手彫りで作った。区民まつりや地域が主体のコンサート、講演会などは「玉虫を知ってもらういい機会」とし、胸像も“出席”するのだと笑った。

 榮子さんと直美さんは幸五郎さんの思いを継ぎ、店舗の一部を「荒町養賢堂」と称してイベントなどに開放している。今年は「明治150年」でさまざまな行事が全国で催されているが、東北各地では「戊辰戦争150年」とする企画が目立つ。荒町養賢堂でも昨年3月から1年をかけ、参加した約50人が白石城や米沢城など戦跡を巡ったという。「胸像を見て『この人は誰?』と言った人にも玉虫を知ってもらえた」。直美さんは手応えを感じているようだった。

 玉虫は同盟軍主力の仙台、米沢両藩が敗戦した後捕らえられ、明治2(1869)年4月、責任を負って仙台城下の獄中で切腹した。享年47。清流と直接関係はないが、維新の動乱期を生きた同時代人を、地元の偉人に対する熱い思いを通じて考えてみたかった。

 清流が校正主任を務めた新聞社の社長、福地源一郎(桜痴)も同じ時代を生きた一人だ。生地の長崎市でも地元の団体が福地を顕彰する活動を続けている。「この街の多くの人にもっと福地源一郎を知ってほしい」。取材したときの人々の願いが心によみがえってきた。(稚)

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